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2008年5月18日 (日)

「クアトロ・ラガッツィ」

若桑みどり「クアトロ・ラガッツィ 天正少年使節と世界帝国」集英社

美術史家・若桑みどりさんの代表作といえるでしょう。力作です。
クアトロ・ラガッツィ(4人の少年)とは天正少年使節のこと。
世界を視野に入れていた信長の認可を得て、はるばるローマ教皇の元へと送り出されます。
日本人がキリスト教徒として優れた可能性があることを知らせようと考えたイエズス会のヴァリニャーノの発案でした。
4ヶ月後には信長が暗殺されたとも知らず、8年後に帰国した時には秀吉によって宣教師が追放された後だったのでした。
世界の動きと大名の動向がありありとわかり、宣教師にも出身や性格の違いがあったこと、宣教師達の見た信長・秀吉像もとても面白いです。

ヨーロッパで16世紀といえばカトリック教会の権威が揺らいだ時代で、そのために少年達は王侯のデモンストレーションに利用され、予想以上の歓迎を受けるんですね。
非常に真面目で優秀できちんとした彼らの印象は、長く日本人のイメージとして残ったようです。なんたって、日本人がヨーロッパに行ったの初めてだったんだから。
時代に翻弄された少年達のその後もさまざま。
東洋の一国・日本から船に乗ってイタリア・ルネサンスの研究に行っていた若い頃からの作者の思いも含めて、感動的です。

天正14年にいったんはイエズス会に保護状を出した秀吉でしたが、九州平定後に伴天連追放令を発し、清廉でお気に入りだった高山右近を改易してしまいます。急転するこのいきさつもダイナミック。
絶対君主になろうとする秀吉には、主君よりも神を大事にするキリスト教徒は、本来許せないわけです。でも平定前には利用していたのが、平定したとたんに猜疑心を強めたんだそうで。
ポルトガルの人身売買に秀吉が激怒したことや、スペインとポルトガルの征服者的性格に対する警戒もあったんですね。天正使節の親戚に当たる有力大名・大村純忠、大友宗麟が没した影響もあったのか。

天正18(1590)年、少年使節が帰国、いちおうは歓迎されるのですが…既に公の布教は禁じられていました。
イエズス会が駄目ならと甘い考えでフランシスコ会が来日して活動したことが裏目に出て、1597年には長崎で26人の殉教。
慶長13(1608)年には伊東マンショ、原マルティーノ、中浦ジュリアンはひそかに司祭となります。マルティーノは亡命先で尊敬する師ヴァリニャーノと共に働いたので、一番幸せだったかも?

1633年中浦ジュリアン殉教。隠れキリシタンの人々を支えた後のことです。何ともいたましいが60歳になっていたので、当時の本人にはやるべき事をし尽くした満足感があったかも知れません。
一人信仰を捨てた千々岩ミゲルは、どう生きたのでしょうか。最後に見た時にはキリスト教だけでなく仏教も何も信じない者の目になっていたそうで、ある意味では彼が一番現代人に近いというのも…何やら複雑な感慨を催しますね。

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