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2007年10月 6日 (土)

「万葉集と古代史」

直木孝次郎「万葉集と古代史」吉川弘文館

有名な歌を詠んだ頃の額田王の年齢が気になり、色々探していたらこれがありました。
額田の娘の十市皇女は、大化4年(648年)生まれの大友皇子の妃になっているので、そう違わない年齢ではないかと推測しています。仮に二つ下で、額田が18の時に十市を生んだと仮定すると、額田は633年生まれになるそうです。
十市が息子を生んだのは669年で、蒲生野遊猟の翌年。
額田は36、7でお祖母ちゃんになったことになりますね。
これは当時珍しいことではなく、15前に結婚することもあるので~まだ30歳だった可能性もあるんですよ!

蒲生野での有名な贈答歌は、天智天皇の後宮に入れられた後の額田が、宮廷の行事で前夫の大海人と再会した時の歌とされています。
人目のある野原でおおらかに袖を振ってくる大海人に対して、「野守は見ずや君が袖振る」と気遣う額田女王。
これがもう恋歌というより~中年になってからの座興の歌だったというのが誰の説なのか、とか、これまでの解釈も分かり、面白かったです。
すでに40近い額田の公の場でのからかいに応えて、大海人がしっぺ返したという解釈もあったようですが、もう少し若いとここでは解釈。
私もそう思います~。
お互い嫌いで別れたのではなく心の奥には想いがあるが、下手すると人目について噂になってしまうので、いっそのこと言い放ってしまう~そういう微妙な仲だったのかも?

この本では額田は情熱的で、泣く泣く別れを強いられたのではなく、若き日の恋が終わって自ら去り、より大きな愛を選んだ強い女性なのではという解釈でした。
斉明・天智の宮廷でのびのびと才能を発揮している、というのはまさしくその通りと感じます~。
宮廷の大事な場面で活躍する彼女に対して、天智も力づくで弟の妻を取り上げたわけではなく、愛情はあっただろうと、そのへんは天智の歌を取り上げて解説してあります。

天智が額田の娘を最愛の息子である大友皇子の妃にしたのは、大海人をなだめるためと、額田の立つ瀬を作るためという意図があったような気がしますね。
それにしても、蒲生野からたった3年で天智は崩御、その後は壬申の乱(672年)…

天武8年(679年)に天武は、吉野に皇子達を集めて互いに助け合うことを盟約として誓わせます。これがまた子沢山で、皇子がたくさんいるんですよね。
この時、鵜野(後の持統)の生んだ草壁皇子が18歳。
持統も歌人でもあるんですね。言霊のはたらきが政治に不可欠だった時代なのでしょう。

有間皇子から大伴家持まで~他にも有名な歌を取り上げてあるので取っつきやすく、万葉集が日本書紀を補うような展開になっていることがよくわかります。
女性の歌が多く、追悼の歌も多いのは、それが歌の役割の一つでもあったのだと実感しました。

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